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光と闇と。

2009年10月29日 23:10

コメ返信をしていて、思い出したことなどがあったので忘れないうちに。

うつには波があって、よくなったと思っても下がる時があります。
低気圧など外的な要因も大きいけれども、個人的にショックなことでも落ち込みます。
これはうつの人には限らないけれども、うつにはこれが周期的にくると思います。
波がくるのもわかっていて、一定時間が過ぎれば去ることもわかっている。
最近はだいたいどういう経過(や思考経路)で落ち込むかも少しわかってきた。
そんなとき何か慰めを求めて行動してもうまくいきません。
何かを待っていてもこないし(自分も出してないから仕方ない)。
底のときになにをすればあがれるのかわかっている、あがれなくてもなにかそこから気分を逸らせてくれるものがあれば、ずいぶん楽になると思います。
その対処法が自分の中で蓄積され、選択肢がふえればいいなと思い、現在模索中です。

さて。
過ぎ去ったあとには、同じことでもなんだか有り難く、こころが軽く感じられます。
食べ物がおいしく、気持ちが軽く、空がキレイで、花が美しく、誰かとの会話がうれしい。
うつになるときよりもそんな風に感じられるようになったと思います。

ユングが「闇の中から光はうまれる」といっているように、この「あがり」と「さがり」、そして闇も光は補完関係に在るのではないか、と思いました。

うつがもっとひどかったときに読んだ本でとても印象深かったのが『ゴシックとは何か―大聖堂の精神史 』という本でした。
過剰なまでに壮麗で高みをめざしたゴシックという建築様式をさぐりながら、中世という時代の精神を歴史・文化・社会という幅広い視点でさぐるという、非常に視野の広くよみごたえのある本でした。
その中にあるアルベルティというルネサンス期の建築家の言葉:
「畏敬の念は陰に刺激され、その気持ちは心中に尊厳の気を高め、また多くの場合暗黒は崇高さを増す。
さらに加えて、神殿の中に必要とされる灯りは、それ以上に宗教的教化や装飾を神聖にするものはないのであるが、光が多すぎては灯りの力を失う
というのが非常に興味深かったです。

大聖堂やお寺や神社、という神聖な場所はおもえばたいてい暗いものです。
明るすぎる場所はなんだか白々しい気さえします。
神は善であり光であるはずなのに、宗教的崇高さ(教会は文字の読めない人の聖書だったので、ある意味演出)のためには闇を必要とする、というのは矛盾するようで、意味深いものだと思います。
キリスト教はある段階から、悪というものに対して答えをだしておらず、けれども二元論でいくと、(世俗なたとえだけれどもヒーローの存在にはかならず悪役を要するように)闇なくして光もまたありえないのではないか、とも思えます。
どちらかだけでは生きてはいけず、互いの存在が補完しあっているということでしょうか。

闇があるのは光の有り難さを思うためであり、光もまたそれだけでは存在できず、ときどきふっと消えてしまう…力を蓄えるために眠りについたりするのかなぁとか思った次第です。


明日は面接で、明後日が通院日で、次がバイトで、その次が面接と歯医者…。
毎日違う予定ってなんだか落ち着きません…><
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