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伊藤計劃『虐殺器官』

2011年01月30日 22:54

さて、伊藤計劃『虐殺器官』、読了しました。

すごかった。ツイッターで早川書房さんをフォローしてるんが、そこでちらちらでてて、書店でもみかけていて気になっていたのですが。

グロ指向のようなタイトルに、「大型本格新人作家」みたいな常套句に、どうだろな~なんて思ってました、すいません。やっぱり偏見とか思い込みってイケナイね!!

オーウェルの「1984」みたいな感じの本が読みたい、と思っていた私にぴったりでした。

SFで、確かに近未来ですが、かぎりなく現実に近いです。SFが苦手な人にも読んでほしい。
戦場こそが最先端のテクノロジーが花開く場所だと考えれば、この一部は実現してても不思議ではない気が。

9.11以降の、先進国では情報管理が徹底しつつあるなか、先進国への巨大なテロが減っているなか、後進諸国では内戦が激増しつつあった。
管理されることで「自由」が保証されるなか、自由とは何か、自分とはどこからどこまでか、意識とは無意識を規定するものとは―。

201101302227000.jpg

衝撃なのは、この作者が、このデビュー作から2年未満で作者がガンでなくなっていることです。
闘病し、会社に通いながらこんな作品がかけるのか、と。
長編二作目にして遺作となった『ハーモニー』も読んでみたくなりました。

以下、重い話なので追記にします
[伊藤計劃『虐殺器官』]の続きを読む
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『平安京 音の宇宙ーサウンドスケープへの旅』/『ポトスライムの舟』

2011年01月23日 01:40

ごぶさたをしています。

東京へ、異次元へ移行するような旅をおえて、何かがかわったような気持ちで、また日常に帰還しています。
今日は通院と歯医者がありました。
病院は予約制ではないのでいつも混んでいて、最近ずっと時間がなくてお薬のみにしていたのですが、今日は減薬の相談をすることになっていました。
歯医者さんとの距離を考えるとお茶はむつかしいかな、と思っていたのですが、幸運なことにとても空いて、一時間くらいの待ち時間で終了でした。
トレドミンが一日3錠から2錠に減りました。
デパスは様子見です。レンドルミンはなかなかむつかしいかも。

たくさん空き時間ができたので、府立図書館に寄ることができました。
先日読んだ吉本ばななさんの本とか借りようかな、と思っていたのですが貸し出し中のようで一冊もありませんでした(そもそも府立は研究書が多く一般書が少ないのです)。
しかし入り口付近に「松岡正剛の大路小路」と題して、京都にちなんだ書物が移動式ラックにおかれてました。

そこで見つけたのが『平安京 音の宇宙』平凡社ライブラリーという本。
そしてあと数冊借りて、まだ時間があったので好日居さんへ。今日は中庭に面した、石づくりの床に絨毯にちゃぶ台のスペースに。めずらしくわりとにぎやかめに話してはるお客さんがいたので、ヒラサワで話し声をシャットダウンして(いろんな音が鳴ってるから環境音が聞こえなくなるのです)本とお茶に没頭。

『平安京 音の宇宙』は、ニューヨークのマンハッタンの高層建築群のまっただ中にある小さなナラ林からはじまる。それは、15世紀のアメリカの植生を再現した、アラン・ゾンフィストという人の『タイム・ランドスケープ』という「作品」なのである。
ビルと現代と、500年前の自然が時を越えて重なりあう。そこから、1000年前の古都京都の原風景をたずねて、まずは糺の森からはいってゆく。
その昔この地は、じめじめした暗い森、というよりも照葉樹林と竹類メインの明るい森に覆われていたらしい。
北方に玄武、東方に青龍、南方に朱雀、西方に白虎という四神相応の思想にもとづいてつくられた都市ですが、そこには陰陽五行にもとづく音の思想もあるのだとか。
北は盤渉調(ばんしきちょう/491.5hz)、東は双調(そうじょう/391.5hz)、南は黄鐘調(おうしきちょう/437hz)、西は平調(ひょうじょう/326.2hz)というらしい。
完全に一致するわけではないですが、なんとお寺の鐘というのは、各々調律してあるというのです!
みんな一緒だと思ってた…。
たとえば大原の勝林院は平安期の鋳造で、阿弥陀如来に回向するの鐘は「平調」で、秋の物悲しい音。対して来迎院の鐘(1435年鋳造)は「双調」で薬師如来に祈願するその音は、若葉のもえいずる春のよろこびなのだとか。
なんて細やかな音世界なんだろう。

文はガムランの音世界からインドネシアの二元論にもとづく宇宙論におよび、また日本にもどって当時の文学(『平家物語』や『源氏物語』など)から音によるコスモロジー、宇宙観をさぐっていく。
音にはカタチがないから、簡単に時空を形成する。
1000年前の微細でこまやかな音世界と、いまが重なるような興奮をあじわいました。
第一章「音のコスモス」は、文末で現代のサウンド・インスタレーションにもおよび、
「中世の梵鐘の設置と現代のサウンド・インスタレーションは、その背景や意味において決して同一の地平線上にならぶものではないが、後者によって前者を語る意義があるとすれば、平安京の音プランを、単に五行思想の制度化あるいは現実化としてではなく、音のできごと(イヴェント)の創出としてとらえる視点をもらたすことにある。
それは皮膚とか鼓膜とかいう、知覚の表層の次元でコスモスをとらえる方法である。
理念は現象し、音は人間とコスモスの関係を調整する媒介となる」

まだ三章目ですがこれは面白いな…!
もっと静寂に耳をすませて、感覚をとぎすませて生きてゆきたい、聴覚という感覚を深めていきたいと思いました。

そんなすてきな空間を提供してくださった好日居さんに感謝なのです。
帰り際に声をかけていただいのをこれ幸いと、「月の満ち欠け、月のリズムと暮らすヒント」という談話会に申し込ませていただきました。
申込書リストに青森とか沖縄という住所がみえたのですが、すごい、そんな遠くからきはる人が・・!とびっくりしました。うーんやっぱりその後の談話会にも参加してみようかな~お一人の人いるかしら。

歯医者は無事に義歯をいれてきちんと六回で終了しました。
でもなんか違和感があって固いものを食べると痛いのが少し心配(この違和感は数日すればとれるとのこと)です。
長かった!!終わって本当にほっとしました。

家に帰ってから別の本、たまたま図書館にあった津村記久子さんの『ポトスライムの舟』を一気に読了しました。
これ確かなにか賞をとっていてその紹介が印象にのこっていたので。(+そのときちょうどipodでP-modelの「Fune」がピタッと狙いすましたようにかかっていて、待合室でも『虚無の舟』をよんでいて「舟」が気になってたこともあって)
二編はいってるのですが、これはなんかもうまさに数年前の自分のような「うつ症状」の話でもありました。
真面目で、「生きること」や「快」や「楽」に不器用で休むことをしらず、不安という漠然とした強迫観念にとりつかれていて。
小説の女性は30代手前で私よりも若いですが、「仕事/結婚」という不安定な感覚など当時私が抱いていた思いに迫るものがありました。
読み終わったあと、小説の内容というよりも、ほんの一、二年前の自分の現実感、そしてそれとの距離、今苦しんでいる人、そんな気持ちに対して涙がでました。
今の会社はほんと女性運にめぐまれていると思います。

自分の生活を維持するために、時間を売ってささやかなお金をかせぐことへの疲れや不満や、願望。
生活を維持をする、でもなんのために?と主人公はといかけるのです。

主人公に何らかのモチベーションを与えた世界一周のポスターの隣に張られた、軽うつ症状のポスター。
これはひとつの時代の小説なのでしょうね。

自分のささやかな生活に小さなたくさんの望み、漠然とした理想に不安。
幸せのカタチやらステータスやらそんなものを求めて漠然と舟はただよいます。


その舟が無人なら、と荘子は言う。
「もしあなたが自分の舟を空にできたら
世間の川をわたっていくとき
誰も
あなたに歯向かいはしない
誰も
あなたを傷つけようとはしない」
(『虚無の舟』)

そもそもめんどくさい自己、エゴが不在なら、傷つかない。
自尊心がなければ屈辱もない。
だけどその「道」のなんとむつかしいことでしょうか。
それはまさに何千年もかかって、瞑想や修行の元におびただしい人々がこころみようとした境地ではないだろうか。


けれども知り合いのフラワーエッセンスのセラピストさんがブログにこう書いていました(彼女もうつ経験者なのです)。
太陽の光を反射しているだけなのに、月はあんなに美しい。
そんな風に人も、
「自分で光り輝こうと必死に努力しなくても
力を抜いてあるがままでいれば
自然と光り輝くのかもしれませんね」


空にすれば、音がより響く。
空間が自由になれば、遊びがうまれてさらに自由がうまれる。
もっと今あるものに耳をすませて、そこからくみだせるものを探ってみたいです。
そうして新しいものや、未知のものをキャッチできるようにしておきたいものです。

平安京 音の宇宙―サウンドスケープへの旅 (平凡社ライブラリー (508))平安京 音の宇宙―サウンドスケープへの旅 (平凡社ライブラリー (508))
(2004/07)
中川 真

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『灰の水曜日』

2010年10月12日 23:08

「わたしはふたたび振り返ることを望まないので
わたしは望まないので
わたしはふり返ることを望まないので
この人の才能やあの人の機会を望んで
そうしたものを得ようともはやあがくことはしない
(老いた鷲はなぜ翼をひろげなければならないのか)
なぜ嘆かなければならないのか
この世の権力のなくなったことを。

この世の時間のはかない栄光を
ふたたび知ることを望まないので
わたしは考えないので
わたしはあの唯一の本当にうつろいやすい力を
知る事はないだろうと知っているので
わたしはそこで飲むことはできないので
そこは木々が花咲き、泉が涌くところだが、
今はなにもないのだから

時はつねに時であり
場所はつねに唯一の場所であり
そして真実であるものはただ一回だけ
そして一つの場所でだけ真実であることを知っているので、
私はあるがままの物事を喜び
あの祝福された人の顔を諦め、
あの声を諦める。

わたしはふたたび振り返ることを望みえないので
それだから喜ぶべきもののうえに
何かをうちたてなければならないことを喜ぶ

そして我らに恵みをたれ給えと神に祈る
そして自ら多くを論じすぎ
説明しすぎたことを
忘れることができるようにと祈る
ふたたび振り返ることを望まないので
これらの言葉に責任をとらせよう
すでになされたことを再びなすことがないように
われらの裁きが厳しすぎることのないようにと祈る

この翼はもはや飛ぶことができず
むなしく空気を打つ唐箕にすぎない
その空気はいまやまったく希薄で乾き
わたしの意思より希薄で乾いているので
案じるべきことと案じてはならないことを教え給え
静かに待つすべを教え給え

われら罪人のために今も我らの死のときも祈り給え
われらのためにわれらの死のときも祈り給え」

T.S.エリオット 『灰の水曜日 Ash-Wednesday』より。


だいぶ前に買った二冊の本(タオ心理学と真昼の悪魔)に引用されていて気になり、読んでみたT.S.エリオット。
有名な『荒れ地』は難解でしたが、この『灰の水曜日』の一節は手帳にかきとめていました。
うつになって、職をはなれて、これまで築いてきた様々なこと、何もかもをも諦めることを自分に言い聞かせてきました。
この詩の解説に、「建設のための諦観」という言葉があり、はっとしたのです。

「諦める」とは、けして後ろ向きな意味だけではなく、なくなった場所に、新しく何かをつくることができるということなのか、と。
荒れ地に花を植えるように。
あるいは木を植えるように。
または聖堂を建てるように。
(そこに祀られているのは、どんな神だろう?)
モノを片付けた空間が自由になるように。
あるいは戦火で一瞬で灰になった街がたくましく復興するように。


この状態は、まわりのマスコミなどでつくられた「既存の」価値観を見直すことなのかもしれない(「人並みの」とか「勝ち組」とか)。
『真昼の悪魔』に(だいぶ前に読み終わったけど深すぎてなかなかまとめられないのです)現代は選択肢や自由が増えすぎて、欲望や理想の到達点に際限がなくなり、いつまでも不満をうむ世の中になったとありましたが、自分にとって「幸せだと感じる瞬間」や「自分が本当に求めるもの」を見つめ直す機会なのかもしれないと思います。
高価な誰もがうらやむものを手に入れた瞬間がいちばん幸せなのか。
誰もが知っている何者かになることが目的なのか。
なんのために?
ばかにした人を見返してやりたいからか、認めてほしいからか。
自分の存在に意味がほしいからか。
それとも、自分を認めてくれる誰かがいさえすればいいのか。
自問に自問を重ねて、自分という存在をよくもわるくも見据えて探して認めてゆくことなのしれません。

うつは、波打ち際のようだと思いました。
無意識と意識の間。昼の国と夜の国の間。
くらい海に飲み込まれてしまうそうな不安を抱えて生きているようです。
そうして予兆もなく暗い波に突然飲み込まれて、まっくらで何も見えなくなってしまうときもある。
でも次には夜明けがやってきて暗闇がうそのように何もかもが美しく見えます。

この詩はちょっとキリスト教色が強すぎるとは思いますが、
わたしはわたしの信じるカミに祈ればいいのだと思います。
「もし他の場所の方が(教会よりも)拝みよいのだったらその場所にいくべきね」(「そしてわたしのおそれはつのる」シオドア・スタージョン)
その辺、日本は宗教的にゆるくて(『聖☆おにいさん』が出版されるくらい・笑)いろんな考えを許容する土壌で、そういうところは好きなんです。


ってそんな詩じゃなかったらどうしようww
いろんな解釈ができるって優れた作品ってことですよね!?

三連休:百鬼園先生/河岸の攻防/水晶山脈

2010年10月11日 21:14

あっという間の三連休でした。
一日目は工事の音で眠れずつかれとれず、イライラ+しんどさでぼんやりと無為に過ぎました。
あ、でもはじめてヤフーオークションに出品しました。出品するのって思った以上に手間でめんどいのですね。
かたづけついでにだいぶ昔のに集めたものを、捨てるくらいなら誰かに使ってほしいとおもいまして。値段を高く設定したら誰もかわないようなので、あれで儲けるのはむつかしそうですね。
まだ誰も入札されてないけどウォッチリストに登録されただけでもうれしかったりw

二日目はひさしぶりに静かな休日をすごし、夜には元気になってひさしぶりに母と食事にいってきました。思えば九月は土曜に病院ばかりで全然ともだちや母ともでかけてないので…。

そして今日は図書館に本を返却と、買い物に。
前回流行がワカランとかどっかの頑固親父みたいなこといってましたけど、ショッピングが好きな人って、買い物という過程自体を楽しめるのだろうな、と思いました。
雑貨とか本屋さんとかはすきなんだけどな。この辺が対人よりも対物が好きという性格もでている気がします。なんというか、めんどくさがるというか、自己完結しちゃってるんですよね。
とブツブツいいながら?仕事にきていく黒いスラックスを補充しました。駅前にでっかいモールができて、ユニクロも無印もZARAもはいってるから便利だわ~。
シンプルかつシルエットすっきりのスラックス二本に、黒いタートル買って終了。ああ黒ばかり…w
黒いすっきりスラックスにシンプルYシャツとか好きなんです。
ブクオフで内田百聞集成がどっさりでてて思わず二冊も買ってしまいました(文庫なのに1000円くらいするのが半額とお買い得だったので)。
内田百聞は夏目漱石の弟子の一人ですが、随筆が秀逸で。皮肉と毒とユーモアにあふれつつ鋭い人間観察が光ります。

たとえば『髭』というエッセイ。
文科学生の頃に髭をはやすのが流行ったのではやしてみた百聞先生。
頭の毛が剛毛なのに髭ははやしてみたら頼りなく、その頼りない髭をはさみで丹念に切りそろえてみたり、「新しい髭にしばらく拘泥」した後、
「それから毎日学校へ通っているうちに、今度は急に髭がいとわしくなってきた。」といきなり翻心。
さらに、「髭を生やしている連中を見渡してみるに概して碌なのはいない。第一、唇の上に少しのばかりの毛をのっけて歩くという了簡がわからない」…とボロカスにw
それでばっさり剃ってしまって翌日大学に行くと知人がびっくりしてこう言う。
「「恐ろしく大きな顔をしていますね、どうしたんです」
「どうもしないんだけど」と云って、私が思わず自分の顔をなで下ろしたとたんに、唇の上がつるつるで髭が生えていないことに気がついた。
「そうか、髭を落としたせいかもしれない」
「あっ、そうか。しかし変な顔ですねえ。僕はぎょっとした。よしたまえ、そんな顔をするのは」」
先生も先生なら知人の方もいった感じで。
そんなこんなで、幾度が髭をはやしたり剃ったりしたりするたびに他人に驚かれてしまう。
先生曰く、
「顔と云うものは、もともと自分の所有には相違ないけれども、背中と同じく自分では見ることの出来ないものである。是非見ようとするには鏡の如き装置を必要とする。
本来は自分で見るものでなくて、他人に見せる目印なのである。そのために顔はいつでも相手の方に向けているのである。
誤って自分は幾度か自分の顔に髭を立てたり、落としたりして、他人を迷惑をおよぼした。
今後、再びこの過ちをおかす事なかるべし、と考えて以来、十幾年間、私はもう決して髭をはやさない。」

小説は夢の世界をそのまま描いたどこで終わるのかわからない実に不思議な世界を書いています。
新潮文庫から『百鬼園随筆』がでてますが、なんとカバーの絵が芥川龍之介だそうです。
数ヶ月に一度読みたくなる、くせになる味です。
百鬼園随筆 (新潮文庫)百鬼園随筆 (新潮文庫)
(2002/04)
内田 百けん

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そんな古本たちを抱えてほくほくと鴨川沿いで十月の光をあびながら昼食にありつこうとしたのでありますが。
パンをたべはじめたとたん、バシッという鈍い音とともにパンが手からはじけとんで、石の上にとんでいきました。
いきなりのことで呆然としていると、頭の上を大きな影が旋回しています。
なんとトンビがパンを狩ろうとしていたのです。羽を広げた姿は1m弱くらいあるでしょうか。
数年前から鴨川沿いでは上空の遥か高みを飛んでいたトンビが人間のおにぎりとかハンバーガーをさらっていくことが増えた、と噂には聞いていましたが…。
間近で見るとさすがの猛禽類。でっかいです。隙を狙って旋回する姿は潜在的な恐怖心をあおります。
カラスも翼を広げると案外大きいですが、その三倍くらいはあると思います。しかし、ハンティングの瞬間そのでっかい翼は私にまったくかすることなく、手にかぎ爪があたることもなく、実に正確に獲物(パン)だけ狙ったのはさすがハンターだな、と。
彼(彼女?)が失敗したのはパンがカレー入りのナンで、想像以上にでかくて重かったことが原因だとか。というかカレー食べられないんじゃ??
しかしそんな論理?が通用するはずもなく。そして私はおなかがすいている。
トンビはしばらくすると近くの枝に止まって、隙あらばの姿勢。こちらもパンをすこしずつちぎって口まで運ぶ戦法で対抗。見返すと目をそらすのでその隙に。
ああ、ひなたぼっこする鴨さんたちをみながらのんびり昼食の予定がえらいことです。
しかし空の王者たる風格のトンビが人間のおにぎりやパンを盗るなんて情けない…。元々は人間のせいでえさ場がなくなったのだから、パンくらいあげようかと思ったのですが、以前パンをあげてた人が十数匹のトンビに囲まれていた恐ろしい光景が思い出されてやめました。
ヒッチコッチの鳥の恐怖がわかるような…。
しかし隣で弁当食べてたっぽいおじさんは無事だったので、ばらけるようなものはハンティングの対象外なのだなと。

にしても、トンビが食べていけないくらい山とか自然が減っているということなのかなと考えてしまいます。


長々散漫に続きますが、図書館で借りた本が先日の夢の世界のようでした!
ふっと目にとまったたむらしげる氏の「水晶山脈」。
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「彼」はこんな山高帽に黒いスーツだったのです。これの背景が黒の闇で、水晶ではなくグリーンの月面だとまさにそんな感じ。
宮沢賢治の鉱物世界がすきな人にはたまらないかも(最後の「クリスタル・キャッスル」の説明にニヤリとしました)。ヒラサワを聞きながら読んでも呼応する感じです。
水晶の世界は人間の夢の結晶だとか。それってスタージョンの「夢みる宝石」の逆じゃないですか!
「ロボットの夢」とか夢みる機械?みたいな...。
ああいいな、この本。こんな夢に行きたいな。
水晶山脈水晶山脈
(2005/06)
たむら しげる

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うつくしい本/夜の世界の住民。

2010年09月26日 22:44

溜まった仕事がきになりつつ、親知らず抜いたところがシクシク痛むのでおとなしくしてました。
じつに気持ちのいい秋の日を主に室内で満喫してました。

最近かたづけたい欲がすごくて二日ともちょびちょび片付けしてました。
今日買った雑誌(クロワッサン)に「捨てられないのは執着があるからだ」とあって、ああまったくそのとおりだなって。
自分には大切にはほかの人にはゴミなものもいっぱいあるんだよね。
他の人の手でゴミとして捨てられるくらいなら、自分の手で処分する方がいいかな、と思うのですが。
必要か必要でないかでいえば、必要ないんだけど、メンタル的にないと不安というか、捨てられないというか。
それを片付けていくテクニックとして「断捨離」というのを実践しててよんでたらモリモリすてたくなりましたw

片付けには段階があって、まずは散らばったモノをジャンル分けしてそろえる(ファイリングとか)。
でもこの段階だけだとモノは減らないんですよね。
それをえいって捨てる気持ちが必要。。


片付けしてると、本棚のおくからひょいっと本が二冊でてきました。
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なんだか美しい感じの本・・・
いつ買ったんだろう。きっと大学時代かな?

『夜の国』ローレン・アイズリー
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なんかすごく面白そうな項目が並ぶ目次・・・。
ああ昔からこういうのが好きだったんだね。

『花の知恵』モーリス・メーテルリンク
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工作舍の本は本当に装丁が美しいなぁ。。

ところでメーテルリンクって『青い鳥』の人ですよね??
やばい、中身おぼえてない…(笑)
これからもっかい読み直そうっと。

アイズリーの本、最初の章を読んだのですが、この世界には夜の国の住人と、昼の国の人がいるんだなぁと。
夜は恐ろしいけど、どことなく親和性を感じる。落ち着く。
「今」の社会のシステムの要求する統一化された人間像になじめない人々。
この本を大学時代に買っていた自分に今日ひょっこり出会ったような気持ちになり、そうして客観的に考えてみれば、ずっと夜の国に近いところに住んでいるのではと思う。
社会にどことなくなじめない感じがずっとある。
まるで自分だけが異星人で、人間の皮をかぶって生活してるような(今監督もすきだったというディックの世界に通じるものがあると思う)。
今ではすっかりその皮もなじんできましたがw(コンタクトレンズのように?)
変な話、うつになってさんざん自己分析やって、冷静になってなじめた気がします。
なじめないからといってそれを主張してはいけないのですね。

思えば、変な話、「グルメ、ファッション、コスメ、テレビドラマ」に概ね興味がないというのは社会にでると浮かないようにするのが結構大変だったり。。
いやもう、そういう人もいるんでそっとしてあげて…みたいな。
あ、身だしなみはどれなりにきちんとしてるつもりですが。。
興味ないものはないんだもん。無理をするのはしんどいよね。


美しい本といえば、アイルランドに行った大きな目的のひとつが、「世界でもっとも美しい」という三冊のうちの一冊をこの目でみたかったから。。
・中世後期の『ベリー公のいとも豪華なる時祷書』/リンブルク兄弟またはランブール兄弟
・19世紀末の『チョーサー著作集』/ウィリアム・モリス
・そして8世紀の聖書の手写本、『ケルズの書』
です。
この三冊目を観たかったんです(全部みたいけど)。

完全に趣味の世界なんですけどw
って片付けの話と首尾一貫してませんね。

さぁ、明日からまた昼の世界に行ってガンバルぞ。



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